
写真を拡大する | 国境のホテルを出発。
|
 |

写真を拡大する | ホテルの前はきれいな湖。
水力発電所建設によりできたらしい。
|
 |

写真を拡大する | コソボではどの車もウィンタータイヤを履いていた。
ノーマルの自分は不安でいっぱい。とりあえず凍結に注意しながらプリズレンを目指す。
|
 |

写真を拡大する | コソボ側も高速道路建設中。
いずれアルバニア側と結ばれる予定。
|
 |

写真を拡大する | プリズレンで左折。標識が三ヶ国語表記(アルバニア・セルビア・トルコ)になってる。
|
 |

写真を拡大する | コソボの道は直線が多く、アルバニアより走りやすい。
|
 |

写真を拡大する | ジャコヴァ(ジャコヴィツァ)の市街地を迂回。
|
 |

写真を拡大する | 山がみえてきた。
|
 |

写真を拡大する | コソボ解放軍の英雄(戦死者)を称える石碑。
|
 |

写真を拡大する | デチャン(デチャニ)到着。早速何人かに修道院の場所を尋ねるが全く英語が通じない。アルバニアのように言葉が通じなくてもなんとかしてあげようという雰囲気でもない。
|
 |

写真を拡大する | あきらめかけた頃、英語を話す人が車で先導して連れて行ってくれた。このゴルフの人に出会わなかったらコソボの旅の印象は結構ちがっていたかもしれない。
|
 |

写真を拡大する | よく標識を見れば「MONASTERY」と書いてありましたが、念のため行き方を。
まず幹線道路のサークルを「MONASTERY」方向に行く。
|
 |

写真を拡大する | 200m位で分岐になるので右へ。
|
 |

写真を拡大する | そしてずっとまっすぐ。
このときは路面が凍結していたので歩きました。
|
 |

写真を拡大する | 1km位行くと、案内板が。
|
 |

写真を拡大する | その向かいが、イタリア軍の監視小屋。
|
 |

写真を拡大する | また1km位進むと、修道院入口にイタリア軍の検問があり、ここでパスポートを預ける。
|
 |

写真を拡大する | 修道院の畑まで有刺鉄線でガードしている。
|
 |

写真を拡大する | このあたりまで近付くと、ヤギの鳴き声かきこえる。
|
 |

写真を拡大する | 許可が出たら、この門をくぐって中へ。
|
 |

写真を拡大する | 中に入ってみると自分以外観光客がいない。
|
 |

写真を拡大する | 客のいない洋服屋に入ったときのように、「いらっしゃいませ、ドネーションはいかがですか?」などといつ言われるかと思うと落ち着かない。
|
 |

写真を拡大する | 敷地内で黒い服を着た長身の聖職者が闊歩している姿はちょっと滑稽だった。
|
 |

写真を拡大する | 「軍隊にまもられながら敵地で孤立した生活をおくっている人々」のことを考えながら運転して帰ってきた。
|
 |

写真を拡大する | ノンストップでプリズレンを通過。
|
 |

写真を拡大する | 国境には車の列が。
|
 |

写真を拡大する | 今回はすんなり通れた。
|
 |

写真を拡大する | と思ったら、クカス橋付近で警察の大規模な検問。スーツケースを開けるように言われた。
近くのドライブインのおじさんがいうには、武器密輸の摘発が目的らしい。
|
 |

写真を拡大する | なんとかティラナ到着。疲れた。
|
 |

写真を拡大する | 出発の朝、日本語を喋るイタリア人と朝食で一緒になった。新聞社の特派員として二年間東京にいたという。
イタリアとの関係についておしえてくれた。
アルバニアがイタリア文化の影響を受けていることについては、植民地時代の影響、イタリア語を話す人が多いことについては、テレビの影響というのが彼の見解。
社会主義政権時代は外国のテレビ視聴が禁止されていたのに、人々は隠れて見ていたという。
|
 |

写真を拡大する | 空港までAltini君が運転してくれた。
交通量の多いところは運転したくなかったので嬉しい。
|
 |

写真を拡大する | 荷物検査の長い列。
|
 |

写真を拡大する | なぜかウィーン到着が一時間以上も遅れた。
到着時刻が乗継機出発時刻で、見事に置いていかれた。
|
 |

写真を拡大する | ハンブルク行きの乗客だけミニバンで救済に来たオーストリア航空の係員。
|
 |

写真を拡大する | 救済されなかったので、サービスセンターへ。
今日の便はどこを経由してもないという回答。
ウィーン足止め決定!
|
 |